我が家にいる愛犬のこじろうは運動量の多い犬種であるため、頻繁にドッグランへと足を運びます。その時にふと、これまでの自分の間違いに気づくのでした。
僕が思っていた自分自身が現実とは大きく乖離してるかもしれない。それが原因で起きてたトラブルがあったかもと自分を振り返る時間となったのです。
案外、自分のことを正しく理解できている人は多くないように思います。さらに、そんなに自己理解が歪んでしまった原因は親子関係に隠されていると感じ始めることに...
それでは「ドッグランでねぐちが気づいた!自己理解の重要性」についてスタート!
エリアごとに分けられているドッグラン
ドッグランでは犬種・サイズ・体重などにより遊べるエリアが分けられているケースがほとんどです。
我が家のこじろうはコーギーなので中型犬。そのため、中型犬エリアもしくは中大型犬エリアに入って遊びます。
こじろうが遊ぶ様子を見守りつつ他のわんちゃんの様子を観察していた僕。すると、あることに気づきます。
ねぐちの気づき
- 小型犬エリアでは「喧嘩多い」が「小さな喧嘩」
- 中大型犬エリアでは「喧嘩少ない」が「大喧嘩」
小型犬エリアでは頻繁に喧嘩が起きていたのです。偶然、僕たちが居合わせたタイミングだけだったかもしれませんが小さな喧嘩が頻発していました。
一方、中大型犬エリアでは頻繁に喧嘩が起こることはないものの人間が止めることの出来ないほどの大きな喧嘩が稀に起こるのでした。
パワーと気力には差がある
同じ犬という動物ですが、犬種が違えば、体格やパワー、運動神経などには個体差があります。さらには、性格にも違いがあるでしょう。
こんな当たり前のことを分かっているようで分かっていなかったことにハッとさせられました。
自分のことをよく理解していないことが原因で、これまでのトラブルが起きていたかもしれない。
新たな発見になりそうです。自己理解の大切さがここに隠されているような気がしました。
周りのことをよく観察している僕ですが、自分のことをよく観察したことはありませんでした。
僕は大型犬かもしれない
ねぐちの仮説
僕は大きな勘違いをしていたかも。
僕は小型犬じゃなくて大型犬かもしれない。
もし、僕が犬だとしてドッグランで遊ぶなら間違いなく「小型犬エリア」へと足を踏み入れます。
自分自身のことを「犬だったらポメラニアンって感じだな」なんて思ってたんです。
しかし、ドッグランで様々な犬たちが遊んでいる様子を見て「僕は大型犬かもしれない」と感じたのです。
大型犬エリアの特徴
- 一度ケンカをすると人間たちの声では止めることが難しい
- じゃれあっているつもりでも結構なパワーが出ている
- 基本的に静かでゆっくりとした時間が流れている
こういった様子は小型犬エリアの方では見受けられませんでした。飼い主が体をひょいと持ち上げれば、物理的にケンカを止めることができます。
逆に、人間(飼い主側)がワンちゃんたちを踏みつけたり蹴飛ばさないように注意して行動する必要があります。
これまでポメラニアンだと思っていた僕は「自分1人では転けてしまうから周りの人に助けてもらわなくちゃ!」ぐらいの気持ちで振る舞っていました。
もし、それが大きな勘違いだとしたらまずいです。仮に僕が大型犬だったとしたらなんて図々しいんでしょう。
自分が一番できるだろうよと腹が立ってしまいそうです。
ここだな!ここに過去のトラブルの種が隠されている!!
皆んなが思う鳥にならなきゃ
身体の小さな僕は、正直オニオオハシには見えないと思います。それに色んな人から言われたことも沢山あります。
「変な鳥だな」「ダサいな」などと指摘されたことが何度もあります。
「確かに僕は大したことない鳥だもんな...」と思った僕は「もっと頑張らなくちゃ!」と必死にもがいてきました。
出来るだけみんなが知っているオニオオハシになれるようにと。「みんなの目に映っている姿に近づかなければならない」と思い込んでいたんです。
だけど、近づくどころが疲弊して自分を見失ってうつ状態へと落ちていったみたいです。
思い返すと、自己理解が出来ていなかったから目標設定を大幅に間違っていたように思います。
見かけによらず大きな鳥
一緒に住んでいるたにに「見かけによらず強者だ」と言われたことを思い出しました。
たにの感想
僕の第一印象はへっぽこでアホそう。
だけど実は違う。
なんて失礼なんだ!と思っていましたが自己理解が間違っていた僕は「やっぱりダメな鳥なんだ」と思い込むループにハマり込んでいたようです。
「人は見かけによらない」という言葉の意味を理解してはいましたが自分自身に当てはめて考えたことはありませんでした。
分かっているようで分かっていなかったんですね。自分の見た目についても分かっていなかったし、自分の強みも分かっていなかった。
僕にだって意外とできることは多いし、パワーも気力もありそうです。そして何より考える力がありそうと自信が出てきました。
しかし、それにしても不思議です。どうしてここまでトンチンカンな認識をしていたんでしょうか。
否定し続けた両親
思い出しました。僕の両親は僕のことを否定し続けていたんです。お前は何も出来ないから誰かに助けてもらわなければ生きていけない存在だと。
子供の頃よく言われていた言葉があります。
父親がかけた呪い
俺の言うことを聞かんなら明日からのご飯はないと思え、送り迎えもせん。金も出さんけん一人で生きていけ
これらの言葉は脅しだと分かっていながら、やはり僕は「自分一人では何もできない」という感覚を植え付けられていたんだと思います。
毎日のように言われ続けました。僕の意思や考えは一度も通ることがなく、言いなりになることでしか衣食住を保証してもらうことは出来ませんでした。
「お前は何もできない」というメッセージをあらゆる言葉・態度で示し続けられたのです。
そう言った環境に身を置くと、本当に何もできないと自分が信じ込むようになると痛感しました。
怖っ!!それに酷すぎる。
父親の弱さ
実の子供にそんなことを言ってしまう父親は本当に性格が悪いと思います。親としても人としても終わっているでしょう。
しかし、なぜそんなことを言ってしまうのかと考えると「父親の心が弱いからだ」と感じます。
子供をコントロールすることで自分が優位であることを感じ、強く見せたい・大きく見せたいという心理があったのでしょう。父親自身の自尊心を保つ方法だったのだと考えます。
そういえば...
僕は小型犬エリアにいた「よく吠える犬」を思い出しました。
そのワンちゃんには誰も近づいてないし、吠えられてもいない。それなのにずっと1匹で吠えていました。
うるさいなと感じていた僕ですが、あのワンちゃんの吠えは「怖いという不安からの叫び」だったのかもしれません。
そして、その1匹で吠えていた小型犬が僕の父親のように見えました。
さいごに
親子関係では上下の立場を作りやすいように思います。それは当然です。
まだ未熟で、精神的にも経済的にも自立することの難しい子どもたちは弱い立場になってしまいます。
それを利用して、僕という弱かった立場の人間を支配下に置きコントロールし続けることで「自分は強い・自分が偉い」と自尊心を保とうとしていた父親を憎く思います。
人間にも個体差があることを理解して受け止める。もし親より子の方がパワーや気力が大きかったとしても、僕自身を否定するのではなく素直に認めてほしかった。
その心の強さを持ち合わせていたら、どれだけ良かったのだろうと思います。それならきっと、僕と父親が絶縁する展開にはならなかったでしょう。
だけど、これ以上考えても仕方ない。僕には僕の人生があります。
きっと父親は変わる気がないでしょうし、変わる見込みもありません。だから距離を置くことにしました。
産んでくれたことには感謝しています。ですが、しばらく顔も見たくありません。
僕はあなたとは別の方法で自分の人生を切り開いていきます。
それでは本日は以上です。最後までご覧いただき、ありがとうございました。