皆さんこんにちは、バードセキュリティのねぐちです。
「はぁ、どうして隣の芝生ってこんなに青く見えるんだろう...」
なんて悩んだ経験ある方多いのではないでしょうか?
自分の家にも芝生はあるのに、
やけに隣の家の芝生が綺麗に見えるな...
そんなことについて考え込んでいた僕、
あることに気づきます。
もしかして、自分にないから青く見えるのかな...?
なぜ、”ないものばかり”欲しくなるのか
記事要約:比較の正体は、”自分にないものへの執着”であり、それを手放すことで自由になる話

隣の芝は青く見えるという言葉の意味
「隣の芝生は青く見える」とは、自分の環境や状況よりも他人のものの方が良く見えるという意味のことわざです。実際には同じような状況でも、客観的に見えにくいため、他人の状況が羨ましく感じられるという心理を表しています。
【出典】Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)
実際にはそんなに差はないのに、他人の環境や状況の方が自分よりもよく思えてしまうんですね。
これは自分と他人を比較した結果、生まれる感情です。
日常生活で起きやすい”隣の青芝”現象
- 友達の仕事は楽しそうに見えるけど、実際は大変
- 他人の家庭は幸せそうに見えるけど、実際は夫婦喧嘩が絶えない
- SNSで誰かの暮らしが完璧に見えても、別の部分では悩みがある
こんな風にある一面(=自分からの視点だけ)から見ているとよく見えものは世の中にたくさんあります。
誰しもが一度は感じたことがある「手に入らないもの」への憧れ
僕だって、隣の芝が青いことは何度もありました。
- 自分よりも豊かな暮らしをしてる(経済的に余裕がありそう...)
- スタイルが良くて羨ましい(あんな風に手足が長くなればいいのに...)
- 幸せな家庭を築いている(パートナーとも子供とも関係が良好でいいな...)
どうしようもないこともあれば、努力すれば手に入るものもあります。
どちらにせよ、「現状の自分にないものを持っている人」に対する憧れの感情です。
自分にも、そんな時期があって迷走してたな...
僕自身が強く思っていたのは「馴染みたい」という願望でした。
社会生活を送る上では絶対に馴染める方が暮らしやすい、楽しめるイベントも多く、共感できる仲間とも出会いやすいため集団生活が快適です。
だから、そっちがいいなぁと思って奮闘してたんです。
けどそんな現実は甘くなく、
難なくみんなと上手くやる人たちを見ては、
「芝生が青すぎるぜ...」なんて落胆する日々。
僕の迷走期ですね
自分にないものほど強く惹かれるジレンマ

次に、「どうして憧れるものが人によって違うのだろう?」という疑問が浮かんできました。
よく観察していると、ある法則が見え始めます。
憧れはよく観察すると、自分にはないものだった
その人が抱く憧れは「自分自身にないもの」を対象としてることが多い。
僕の場合は、「多数派、馴染める自分であること」
- 実際の僕:少数派(感覚や考え方、気質など)
- 理想の僕:多数派がいい!みんなに馴染みたい!浮きたくない!
どうして多数派がいいのか?
それは自分が少数派だからでした。
少数派ならではの辛さやしんどさを、
日々目の当たりにしてるから、
「そうじゃない多数派」に魅力を感じてしまいます。
もちろん、少数派が悪いわけではないことは知っています。
しかし、「そっちの方がいいな、なりたいな」と隣の芝が青く見えてしまうもの。
人の多い場での重要な振る舞い「合わせる」
別にそれでもいいじゃん
それって楽なことだよ!
悩まなくていいよ!
勇気づけてくれる人がいても
なかなか受け止めることができません。
当事者にしか見えない苦労・葛藤ってあるんですよね。
ここで、僕が感じていた「独特の孤独感」を説明させてください。
大企業に入れたけど、活躍はできない僕
新卒で無事に大企業に入社することができました。
しかし、人が多い環境・組織の中で何かと少数派の感性は異物となるため邪魔になる。これは構造上、仕方のないこと。
「休憩中に皆と過ごすorひとりでのんびり過ごす」
こういった正解がない問いの場合は、
やはり多数派の方が居心地は良くなります。
仕事も進めやすく、周囲からの協力も得やすいです。
どうにか折り合いをつけようとすると疲弊して寝込むことが多くなった僕は休職。
活躍することなんて、できませんでした。
乗り始めた船を降りるタイミングを失う
人が多い組織で働くって、合わないんだろうなぁ。
僕は苦手なんだんろうなぁ。
と薄々は自覚していました。
しかし、一度乗り始めた船「やるぞ!」と決めていた僕は簡単に降りることができなくなっていきます。
居続けることはできなかった現実

先ほど紹介したように「大企業=人の多い組織」に属することはできました。
それは、その場に自分の身を置くことができている状態。
僕が憧れていた状況でもあります。
その状態に近づくことはできたんです。
限界を迎えた日「新卒の悲劇」
ただ、かなり合わなかったのか入社して半年で悲劇が起きました。
毎朝、土色の顔で出社してくる僕を心配した人事部の方が、勤務中に病院へと連れて行ってくれました。
ほぼ連行です。笑
今になりありがたかったなぁと感謝しています。
馴染めていなかったと自覚した瞬間
それから紆余曲折あり、9年ほど経過。
30歳になった今、
ようやく「僕はあの環境に馴染めていなかったんだ」と心から認めることができています。
『僕には僕で別の合う場所があるから』と視点を切り替える余裕が出てきました。
その段階に行くためには必ず、受け入れたくない事実を認める必要があったと思います。
受け入れたくない事実が、自己理解の入り口

教えてはもらえない「向き・不向き」
明らかに、大企業での会社員は不向きでした。
人がたくさんいる環境なのに、
周りの目を気にすることができない僕は
「あらゆるところで反感を買う」
本心じゃないのに、周囲や集団の意見に合わせる必要性が出てくる。
そんなストレスに、本当に耐えられませんでした。
やはり、誰にでも向き・不向きはあります。
僕は、人が多い場所での仕事は不向きだと感じてます。
認めたくない事実には、痛みが伴う
そんな事実を認める時はやはり痛みが伴いました。
「え、そんなわけない」
「僕はできるに違いない」
こんな風に、憧れの自分に沿った解釈へと近づけたくなる。
そうあって欲しいと願ってしまうんですよね。
第1章「理想像との別れ」
だから、自己理解の一番のステップは「自分の無意識の理想像を知り、それと決別すること」だと思います。
それには精神的な痛みが伴いますが、乗り越えた先には「やってよかった」と思える”自分が楽に居られる環境”が近づいてきます。
理想像と別れるという一時的な痛みを避けることはできませんが、それ以上の心地よさがくることを信じて挑むことが大事な気がしています。
芝が青く見える場所にはヒントが隠れてる

憧れはコンプレックスの裏返しかもしれない
今振り返ると、僕の抱いていた憧れは実はコンプレックスの裏返しだったように思います。
自分が人付き合いが苦手で、面倒で、できればやりたくないなと思いながらも目指していたから、それを難なく・むしろ楽しそうにやっている人たちにコンプレックスを感じてしまう。
隣の芝に強く惹かれる理由
隣の芝が青く見える理由は、持っていない芝生を綺麗に育てている姿が眩しく見えるからなのかなと感じています。
逆にいうと、近所に住む人もまた「あなたの芝生を青くていいなぁ」と思っていることもありそうですね。
最後にたどり着いた明るい事実

比べられないという「本当の自由」
色々と踏まえて考え続けると、人の芝生と比較することはできないという事実に辿り着きました。
自分と他人は、そもそも土俵が違った
同じ遺伝子で、
同じ環境で、
同じ容姿で、
同じ性別で、
同じ価値観で、
同じ感性で...
全てが揃わないと、比べることなんてできない。
だから、考えるだけ無駄だ。
僕だけじゃなく、皆それぞれ土俵が違うんだ。
強みも弱みも異なるだろうな。
そんな結論に辿り着いた僕は、本当の意味で自由を感じられている気がします。
自分の芝も見て、育てよう
大事なのは他人の芝生を見ることではなく、自分の芝生を観察して育てること。
確かに隣の芝生とは色味も形も面積も、何かと違うかもしれないけど「自分の芝生にしか出せない良さ」は必ずあるはずです。
比較する生活から抜け出せると、フリーな幸せが訪れます。
これは本当に心地よく、楽しい時間になる。
一見わかりづらい変化ですが、
どんな服よりもお金よりも「やってよかった」という資産になります。
比較することは難しいという事実を理解して、
自分のコンプレックスと向き合い、
その先で強み(=武器)に気づく。
そうやって、楽しく幸せな人生を送って欲しいと願うねぐちでした。
こんな「自分にないものを求めてしまう感覚」って、”どんな生き方を選ぶか”にもかなり影響してきます。
その話はこちらで書いています。