前回の第1話では「期待しない子どもになった理由」を書いた。実は、その先でもさらに感情が動いていくことに。
誰かに期待されることが、気持ち悪い。
注目されること、
褒められること、
見られること。
普通なら嬉しいはずのことなのに、私にとってはかなりの苦痛だった。
思い返せば、幼い頃から”期待されることの痛み”の方が先に体に刷り込まれていたのかもしれない。個人的には期待には闇があると思う。
今回は、「期待されることへが嫌悪感へと変わっていった過程」についての話。
期待をかけられることへの違和感

【保育園時代】記憶はないけど残る「圧」
私は長い間、おねしょに悩んだタイプで、なかなか改善することがなく恥ずかしく感じていた。
心配した親は、児童精神科に連れて行ったとか。
しかし、そのことを私は全く覚えていない。
ただ、エピソードを語る親の様子だけははっきりと覚えている。
医者から「期待をかけ過ぎないように」と注意されたと、
親は「何もわかってない先生だったのよ」と笑い飛ばしていた
わかってないのは、あなただよ。
その話は6歳頃の話。そんなに小さい頃から、私に期待をかけ続けていたの?と恐怖を覚えた。
子どもへの期待と聞くと、熱心な親に見えるため印象が良くなりがち。
だが、実際には恐ろしいほどに自分にとって都合のいい未来像を描いてるだけのことが多い。
うちの親は、まさにそれだった。
そんな圧を感じ取る日々は、本当に疲れた。
期待をかける親は、自分の感情しか見ていない

期待とは「こうあってほしい」という押し付け
両親から感じていたのは、「あなたにはこうあってほしい」という期待のフリをした「エゴの押し付け」だった。
それは、私にとって”トラウマ的なインパクトを残すこと”に。
こんなものなら欲しくない。
汚い、醜い、ダサい、気持ち悪い。
どんどん渦巻いていく、期待にまつわる負の感情が止まらない。
親の不安解消のために"いい子”を要求する構造
そもそも、なぜそんなに期待という形で要求してくるのか理解できず、そのことも不快で。
ある日「親自身が抱える不安を払拭できないから」だと気づいた時、親への思いは嫌悪感から呆れに変わった。
「なにそれ、馬鹿馬鹿しい」
親に対して、軽蔑の眼差しを向けるようになった私。「幼稚だな。脆弱だな」という感情になっていく。
さらには、親と似たような人間に対しても強い嫌悪感も示すように。そんな人は、学校にも職場にもたくさんいた。
もうみんな気持ち悪い。
私は、嫌悪感が育った
結果として、私の中には「期待されることも・することも気持ち悪い、醜い」という歪んだ価値観が形成されることに。
あの頃は、そういった部分にかなり潔癖で拒否感が強かった。
期待をかけられるほどに閉じていく感情

醜いものに見えてきた日
親から期待される経験をしたことで失敗をすることができないようになる。
期待に応えないと、私の安全な生活は保証されなかったから。
よく脅されていたことを思い出す。
家の中でも、出先でも、「お前の好きなようにしてはいいが、その時は衣食住がなくなると思え」と。
これは、間接的な脅迫。
親本人は、するなとはいっていない。
好きなようにしてはいいが。
という言葉を挟んでいるのが悪質なポイント。
そんな幼稚な脅迫をしてまでも、私を支配下に置きたかったようだ。
- 絶対にコントロールされたくない自由を望む私
- 安心のために手元に常に置いておきたい父
この二人の相性は最悪。子供の頃は当然、私の方が弱いため従うしかない。

役割を全うすることが上手くなる私、
改善することだけがどんどん上手になる
もうそれが出来るだけの人だった。
自分は誰なのかわからない。
そして、やっぱり何かに期待する人たちが気持ち悪くて仕方なかった
期待されるのも、するのも気持ち悪い
そんな考え方を拗らせた結果、期待しない人が綺麗という謎の価値観も育っていくことに。
あんな人にはなりたくない!という強い多いから、何もかも自分で行う、自立を最優先するスタンスを取る子になる。
期待は愛情の言い換えではない
そんな日々の中で、親に対して強く思っていたこと。
それは、期待は愛情ではない。ということ。
「あなたのためを思った、親からの愛情だ」と彼らは主張する。
それに、本気でそう思っている。悪気など一切ない。
彼らもまた、被害者だった。
同じように期待をかけられ、その不安感を処理できないまま大人になり次は、自分が子供に不安をぶつける存在となる。
そんな連鎖は愛情でもなんでもないと思う。早く抜け出したい。
消されていく自我
期待を押し付ける親が奪ったものは、私の自我だと思う。
特に、もともと自我が強いタイプだった私は余計にしんどかった。
こうしたい、これがいい、あれは嫌だ、...
そんな自我がたくさんあるのに、これはダメ、あれもダメ、それならいい、これにしなさい。
親が言うものでないとOKが出ない。そんな生活では、自我を消すことが最適だと学習するのは当然。
強い嫌悪感の正体

これ以上、あなたの感情を背負いたくない
そして、気づく。どうしてこんなにも期待が気持ち悪いのか。
社会人になり新卒で働き出した途端、限界を迎えた私。
募りに募っていた私の思いは...
「あなたの感情ぐらい、あなたでどうにかしてよ」というものだった。
私にも気持ちがある。
あなたにもある。
みんなにあるんだよ。
それをお世話してもらえるのは赤子だけだから。
大人はお世話する側なんだよ。
お父さんは、私よりも随分と大人だよね?
いつまでそんな感じなの?
こんな人とは離れようと思うのに、簡単に離れることはできなかった。
そんなメンヘラな親でも、やはり大事だったから。
悔しいけど、親はやっぱり親だから。
あんなに軽蔑してるのに、あんなに気持ち悪いのに、
彼らだけが私の心を揺らす存在となる。
そんな現実がとても嫌だった。
盾として手に入れた心が呪いに変わる日...

大人になると、これまでの生存戦略が一気に効かなくなった。
自分でも薄々は気づいたこと。
何かに振り切ると、何かが犠牲になる。
それが何かは分からないけど、今はこうするしかないからそうしておこう。
その犠牲の代償が現れたのは、新卒の時でした。
次回、感情のミュート編です。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。