「ねぐちが語る、鬼と人間は紙一重だった」「鬼滅の刃に映る、社会構造」というテキストタイトルが書かれたアイキャッチ画像。左下に片手をあげたオニオオハシのイラスト。背景は赤と黄色を基調とした和柄

ねぐち作品考察

鬼滅の刃に映る社会構造|鬼と人間は紙一重だった

皆さんこんにちは!バードセキュリティのねぐちです。

たにくんから激推しされて見たアニメ「鬼滅の刃」、国民的大ヒットアニメを見ていた僕は「あまりにも生々しい人間社会模様に胸が痛くなります」

  • 鬼も鬼殺隊も、紙一重にしか見えない
  • 鬼が悪いなんて本当にそう言い切れる?
  • 何もしない市民は悪くないのかな?

色々と、目まぐるしい感情が出てきたねぐちの作品考察スタートです!



鬼も、元は人間だった

僕が一番印象的だったのは、元々は鬼も人間だったという作品設定。

鬼として生まれたのではなく、
異種の生物でもなく。
元は人間だった。


ここに鬼滅の刃らしさがある気がした僕。

鬼にも鬼なりの背景がある。

これが、実際の社会の姿、「理不尽で残酷、かつ切ない現実」を描いている気がします。



鬼になる理由は「悪意」ではなく「限界」

では、なぜ鬼になってしまうのか。それは、鬼になる過程を知ると見えてきます。

無惨様が与えた血を飲み干すことができると鬼になる。
無惨様が現れるのは、決まって「その人が辛い状況に置かれている時」でした。

  • 家族が惨殺された
  • 大事な人から裏切られた
  • 自分の唯一の居場所がなくなった...

人生で最も辛く滅入っているときを狙って、無惨様は現れます。
これを飲み干せば楽になれるとという甘い言葉を囁きながら。

人間、生きていればそんな状況は誰にだって訪れる可能性があります。その時に、それでも鬼にはなりたくない、真っ当にいきたいと強い意志を持って断ることができる人はどれほどいるのでしょう。

そんな背景を知ると、自分も鬼になる道を選んでしまう可能性はあるな...と思ってしまい、「鬼は悪い!ひどい、弱い」なんて批判することはできませんでした。





「鬼にならざるを得ない」現実は、現代社会にもある

不条理の中で人はどう壊れるのか

世の中は不条理だ、という言葉を何度も耳にしたことがありますが、大人になるにつれてそれを痛感しています。

持って生まれた容姿や能力は大きく異なり、
生まれた環境は選ぶことができず、
災害や病気など避けることのできない天災にも見舞われることもある。

一方で、何事もなく平穏に生活できる人がいるのも現実です。

どうして、自分だけが。と思いたくなるような現実に直面してる人はたくさんいるはず。

そんな人たちに、「鬼にならないか、楽になれるから」と誘惑してくる無惨様の誘いを断ることは容易ではない。

そして、鬼になったら「ずっと邪険に扱われ続ける」ことも決定する。

猗窩座が鬼になった背景を知るほどに、それしか彼が生きる道はなかったんじゃないかとすら思えてくるほどでした。



鬼殺隊と鬼は紙一重

煉獄と猗窩座が示した対称性

鬼滅の刃「無限列車編」で命を落とした煉獄さん。
彼を倒したのは、猗窩座です。

そんな二人は、表向きは正反対の二人に見えます。

  • 煉獄さん:鬼殺隊として鬼を倒し続ける
  • 猗窩座:人を食べることでエネルギーをもらう


しかし、それぞれの背景には「母から与えられた愛を守りながら鬼殺隊として全うする様子」「実の親、新たな家族と大事な人ができるたびに失ってきた奪われてきた絶望を抱えた様子」と送ってきた人生背景も対極でした。

煉獄さんは鬼殺隊として立派な人!尊敬!
猗窩座がひどい!本物の鬼!
そんな単純な言葉では片付けることができませんでした。



強さの方向性が違っただけ

僕は思います。

煉獄さんは、親からの愛があったからそこまで強くなれたのです。
猗窩座は、大事なものを奪われ続けたからそこまで強くなったのです。

どちらも強かった。
ただ方向性が違っていたんです。


その方向性を決めるのは、本人が最終的に決断しますが、「環境や背景」の影響も大きすぎると感じます。


環境と背景の影響

これは現実の世界でも同じ。恵まれた家庭に生まれた子たちは多くの教育の機会を与えられ、いろんな選択肢を提示される。そんなことすら知らない、子供達もいるはずです。そんな中で必死に強くなろうと生きてきた子達を見て、「なんてこだ」と本人たちだけのせいにはできません。


ただ、二人には共通してる点があります。
それは、「大きなエネルギーを持ち合わせていた人材」だったということです。





問われているのは「エネルギーの使い道」

鬼滅の刃では、鬼と鬼殺隊の戦いをメインに描かれていますが、その2種類だけでなく市民もいます。

そこがより一層、社会の現実とリンクしました。

実際の社会でも、悪党と戦うものはいて、悪党になりそこでの正義を果たすものもいる。そんな中で、何もしないままの人もいる。実は何もしない人、関与しないひとが割合としては一番多いんです。

持ち合わせたエネルギーをどう使うか、悪用せず、利用もせず、ちゃんと意味を持って、使うことができるのか、そんな精神的な面を問われている感覚になりました。





鬼と人間は「可能性の裏表」

鬼と人間という2極を描きながら、どちらも近しい存在であることを描いている。

鬼滅の刃は、鬼と人間、鬼殺隊と鬼という二項対立を描きながら、そのどちらも「人間の可能性の裏表」であることを示しています。結局のところ、私たちは自分のエネルギーをどう使うかを常に問われているのです。

それでも、希望はある

ただ、希望もあります。結末として描かれているのは、鬼の探してるものは見つからない。その場所にはないという皮肉な現実でした。だから、希望はある。やっぱり、ちゃんとすることに意味はある、希望もある、そんな光が差し込んだ気持ちにもなりました。

頭ではわかっていても、心も追いつかせながら選び続けるのは本当に難しいことなんですけどね。

最後に

そして、この作品を生んだ作者・吾峠呼世晴先生。
その性別すら明かされてはいませんが、この物語を世に出したことに、どこか意味を感じてしまいます。

「呼びかけ、そして世が晴れる」
もっと晴れやかな世界になりますように、という祈りそのものなのかなと。
そんな風に、僕は思いました。

いつかそんな世界になることを僕も信じたい。
そして、自分は鬼にはならない。
そう近いながら、今日もこの社会の中で、エネルギーの使い方を選び続けたいと思います。



以上、ねぐちがお届けしました!

  • この記事を書いた人

ねぐち

人の悩みや選択の背景にある「構造」を考えるのが好きだし、癖です。 感情と論理、その間を行き来しながら、納得できる理解を大切にしています。 「理解すること」が人生を楽にする瞬間を、ここで記録中。

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