人は皆、何かに依存して生きている

人は皆、何かに依存して生きてる
そう気づいたのは23歳ごろ。
アルコール、ギャンブル、タバコ、パートナー...
依存対象はたくさんある。
私はどれにも依存してない気がする。
けど、本当に私は何にも依存してないのだろうか。
わかりやすい依存(アルコール・ギャンブル・タバコ)
お酒やギャンブル、タバコなどの嗜好品は分かりやすい依存先の代表例だ。
多くの大人が嗜んでおり、程度に違いはあれど精神的に救われている人が多いだろう。
ただ、依存対象はそういった"モノ"だけじゃないと知る。
恋愛における「人への依存」を知ったときの違和感
友人たちの恋愛話を聞いていて、"人"に対する依存があることも知る。
彼氏や旦那などの自分のパートナーに対して、強い依存を示す子たちを目の当たりにした。
しかし、私はそういった感情や行動になったことがなかったため強い違和感を覚えた。
「自分はあまりそうなるイメージがつかないなぁ...」と。
私は依存していない、と思っていた
だから、自分自身は「何にも依存してないタイプ」だと自覚していた。
アルコールやギャンブル、タバコなどの嗜好品にも興味がなく、恋人に対する想いもそこまで強くない。
ただ、その認識が変わり始める出来事が起きる。
自分でいるために必要だった「行為」

私の依存先は過食嘔吐だった
新卒で働きはじめてすぐに、摂食障害(過食嘔吐)を発症した。
とにかく食べて、とにかく吐いて。
毎日何度も繰り返す。
自分でも意味がわからなかった。
でも、そうせずにはいられなかった。
過食嘔吐をしないと、保てないという危機感や焦燥感だけがある。
それは自傷行為でもあり、救命措置でもあった
- 過食:食べたい(生きたい)
- 嘔吐:吐き出したい(死にたい)
こんな相反する感情が同時に存在する。
過食嘔吐があったから、体調は悪化し、
過食嘔吐があったから、私の心は守られた。
自傷行為でもあり、救命措置でもあった。
自分自身に向く、依存
モノにも、人にも向かなかった依存は、
自分自身に向いていたのだと思う。
依存が消えたと思った、その勘違い
何にも依存してないと思いかけた瞬間
唯一の依存先だった、過食嘔吐も落ち着いて「もう何にも依存してない」と思いかけた矢先、違和感を覚える。
人は皆、何かに依存してる。
そのことを思い出した。
過食嘔吐に依存しなくなったのは良いこと。
では、今はどうやって気持ちを保っているのだろう。
自分に対して疑問が浮かぶ。
でも、違和感だけが残っていた
過食嘔吐が落ち着いたのは、結婚してから。
しかし、旦那自身に対して依存してる様子はない。
ただ、自分が”何にも依存してない人間”とも思えない。
結婚生活を続けること5年。
最近になって、もう1つの依存対象が見えてきた。
そこで気づいた「もうひとつの依存」
夫婦関係の中での役割が、とても特徴的なことに気づく。
私は、「誰かを支える・教える・導く・受け止める」
そんな役割を担うことが多い人生だったと。
今は、旦那に対してその役割を全うしてる。
そして、過食嘔吐が酷かった新卒時代は「その役割を全うする場所がなかった」ことにも気づいた。
私は「依存される役割」に依存していた

父との関係から始まった精神的な依存
少し、面倒な話だが「私の父は精神的に未熟で幼稚な部分がとても多い」
だから、経済的には子供として守られながら、精神的には私が父を守る関係性が長い間続いた。
感情的な面では、私が父の親役をしていたのだ。
結果として、父は私に対して強い依存を示すようになる。
常に手元に置いておきたいという執着が肥大化していく。
その関係が異常だと気づいたのは、ずっと後になってからだった。
関連記事→【ねぐち】メンヘラ父ちゃんから学ぶ「感情の境界線」|誕生日に繰り返される不在着信
夫との関係で繰り返していた同じパターン
父との関係は、旦那との関係に大きな影響を与えていた。
父にしていたように、旦那に対しても、精神的に支え、受容していた。
そんな関わり方しか知らないからという背景もある。
それ以外の男性に対する関わり方を、私は知らなかった。
さらに、嫌な話だが「そんな役割を担う自分でいることに固執してる自分」を発見した。
相手ではなく「役割」にしがみついていた私
父にも旦那にも、「依存される役割」にいることで自分の価値を見出していた。
もともと、私は人に対する執着傾向は薄い。
そのため、役割に依存してるかもしれないと感じた時、妙に腑に落ちた。
その役割を持つ自分でいることで、自分の心を保っていた。
「だから、自分は大丈夫だ」と。
冷たい話かもしれないが、相手は父でなくてもいいし、旦那でなくてもいい。
その役割を担える場所に居れるのなら、
自己価値を感じることができるための役割をくれる人なら、
誰でもいい。そんな状態だった。
その役割にしがみつくことで、ずっと自分の心を守ってきたようだ。
自分のことが、優しくも、冷たくも見えた。
それでも、依存は悪ではない
誰かに依存することを否定したくはない
友人のようにパートナーに依存することを否定したいとは思わない。
生活のために必要なことだと思うから。
自分のためだけに頑張ることは限界があることも知ってる。
だから、この人のために頑張りたいと思うような依存相手がいるのは幸せなこと。
私のように、旦那を支える役割に依存するのも悪くはない。
旦那のように、妻を精神的に頼りにすることも悪くはない。
依存先を分散させるという考え方
ただ、一点集中させてしまうことが危険なのだ。
それが人でも、モノでも、役割でも、行為でも。
分散させるという視点を持ち、いくつか発散先を持っておくことが心身の健康に繋がるのかもしれない。
つい、自分が強く求めてしまうものに「一点集中」しがちだと思う。
私が役割や過食嘔吐に依存したように。
きっと多くの人が、何か一点に依存先を集中させがちだと思う。
だから、気づくことが大切なんだ。
ほどよい依存がある人生がいい
嗜好品でも、パートナーでも、役割でも、なんでもいいから。
健康を害さない程度に、軽度に依存する(楽しめる)ものがたくさんある人生にしたいなと思った。