記事要約:身内以外の関係でも”感情を受け止める役割”に入り、そこで自己価値を感じてしまう構造の話
身内以外の関係でも、同じ役割を担う日々

自ら望んだ、立ち位置
依存される役割は、家族やパートナーとの関係内だけで現れるものではありませんでした。
けど、私は「いつも大変な役割を押し付けられていた人」ではないようで。
誰かの感情を受け止める役割を、
一方的に押し付けられていたわけではありません。
私自身が、自ら、
その位置に行っていた側面があるんです。
女性同士の友人関係でも発生する「メンヘラ対応役」
女性同士の友人関係では、愚痴や不満を語り合う時間が多いように感じます。
私自身も、そういった会話を悪いものだとは思っていません。
話すことで気持ちが整理され、
なんだか息抜きになることがあるから。
不安処理が苦手な同級生の感情の受け止め
ただ、その中には、「とにかく不安や不満が溢れてしまう子」がいました。
その子たちの共通点
不安や不満を誰かに話すことで整理するタイプの人が多かった
自分の内側に留めておくことが難しいのか、何度も同じ話をしたり、誰かに聞いてもらうことでどうにか保っているように、私には見えていました。
そして私は、
そんな子を見ると放っておくことが苦手でした。
「可哀想だから」だけじゃない
「可哀想だから」
もちろん、それもありました。
でも、今振り返ると、それだけではなかったように思います。
酷い言い方をすれば、
うるさかったんです。
不安や不満でいっぱいになって、
ピーピーと鳴いてるように
私には見えてしまう。
その状態が続けば、
集団での会話も
その子の愚痴が中心となっていく。
みんなが、
自分の話をしたいんだから。
だったら、
「もう、早く解決しよう」
となる。
話を聞いて、状況を整理して、どうすればいいのかを一緒に考える。
私には、それができました。
- 可哀想だからやってあげたい
- 見ていられないから、どうにかしたい
- 私なら処理できるから、やってしまおう
いろんな感情が混ざっていました。
今考えると、そこには少し上から見ていた部分もあったのかもしれないなと思います。
私は、この役割を自分の中で「メンヘラ対応」と呼んでいました。
やりたいからというより、楽だから
なぜか「話を聞く側」になる構造
話を聞いてもらえるだけで、不安が和らぐことも多いんだとか。
そのため、不安でいっぱいな子はとにかく、たくさん誰かに話す必要があります。
私自身のことも話してと言われると、
話せることがないわけではない。
ただ、そういった子と比較すると、
「聞いてほしい話=自分の中で処理できない感情や不安」が少ないため、
どうしても聞く側に回ることが多くなります。
余談だが、そんな構造になりやすいことから
「自分のこと話さない、秘密主義な人」
そんなレッテルも貼られることも、ありましたね。
やりたいというより、楽だから
なぜ、わざわざそんな役割に入るのか。
それは私にとっては、
「その役割が楽だから」だと思います。
感情が溢れ返る状態をそのまま眺め続けるより、話を聞いて整理してしまった方が楽。
だから、家庭内でも、
学校でも、友人関係でも、
似たようなことを繰り返してきました。
慣れているし、
得意でもある。
そのため、息を吸って吐くように、
対応していました。
やがて求められるようになる
そんなことを繰り返していると、今度は相手からも頼られるようになります。
- 〇〇に話せば分かってもらえる
- 聞いてもらいたい
- どうしたらいいと思う?
と、自然に相談が集まる。
私も、それに応える。
すると、いつのまにか、
「感情を処理する人」
と
「処理してもらう人」
そんな関係が出来上がっていました。
そこで自己価値が成立してしまう
そして、頼られることは私にとって、自分の価値を感じられる機会でもありました。
求められる機会の多さは、
自己価値を感じるきっかけ。
一見優しいようにも見えますが、
そうとは限りません。
もちろん優しさも含まれているが、
自分のためにやっている面も
大きいのが本音です。
それをすることで、
自分も救われていた。
いろんな理由が、同時にあったんだと思います。
職場で「しっかり者」に配置されやすい人たち
教える・支えるポジションに行きがちな人
この関わり方は、友人関係だけでは終わりませんでした。
働くようになってからも、私は自然と「教える側」「支える側」に目が向きます。
誰かが困っている。
わからないと言っている。
仕事が止まっている。
すると、つい対応したくなる。
「自分でやった方が早い」
そんな感覚もありました。
場所を変えても、「できる側」にいることで自分の居場所をつくる癖が続いてたのでしょう。
そこで自己価値を見出せてしまう構造
正直、相手は誰だっていい。
いや、誰でもよかったわけではない。
私が役割を持てる相手なら、
”誰でもよかった”
不安そうな人。
困っている人。
感情が溢れている人。
私が、「どうしたの?」と
入っていける人なら。
結局、私は、
自分のために
”役割を持って関われそうな子”を
選んでいたのかもしれません。
共感はできるけど、
同じに気持ちになることはないから。
振り回されることはなくて。
だから、そのポジションは”安全”でした。
責任感の強い人が抱えやすい、見えない苦悩

頼られることが前提になる恐怖
言い換えると、
責任感が強いとも
言えるでしょう。
頼られることに喜びを感じ、
応えることも苦ではない。
ただ、やりすぎてしまう。
頼られる、対応する、
自分がやる...
そんな流れが当然のようになり、いつの間にか「やってくれる人」として期待されるようになる。
自分自身が、精神的に消耗する流れを自分で作ってしまう。
「NO」を言うと崩れる関係性
しかも、それで成立してきた関係だからこそ、
NOと言いづらくなる。
きっと自分がした方が早い、
自分の方が得意だなどと、
少し高飛車な見方をしていた面も
あったのかもしれない。
だから、「わかりました」
「やりますよ」と引き受けてしまう。
不安でいっぱいそうな人をみると、
ついメンヘラ対応をしてしまう。
その人の心配もしてるけど、
自分の価値を感じられるし、
コミュニティ内の調和を保てる
それが、"私の目的"だったのだと気づいた。
人を助けながら、
同時に、自分が居心地良くいられる。
そんなコミュニティへ整えていた。
そんな関係性は、
自他ともに不健全ですね。
誠実で真面目なほどに、壊れやすい理由
真面目さや責任感。
人の状態に気づくこと。
状況を整理する力
解決策を考えること。
どれも、悪い能力ではありません。
むしろ、これらが
何度も自分や誰かを助けてきた。
でも、得意だからといって、
毎回、自分が担当する必要はない。
「できる」と「やる」は
別の話だと気づきます。
自分の性格や得意なことは、使い方を知らないと「自分を助けること」もあるし、「自分の首を絞めること」もある。
加減を知らないと、
限界を迎えるまでやってしまうから。
自分がどんな人間なのかを
知っておくことって、
「自分を守る」一番の手段なのかも。
最近、つくづくそう感じています。