室内の棚に飾られた絵画と小さな置物。母娘関係に潜む精神的自立の遅れを考察する記事のイメージ。

親子関係

母娘関係で広がる愚痴文化の構造|やめるのではなく、質を変える

愚痴は悪ではないという前提

感情処理力の個人差や成熟度の違いを表現する、長さの異なる色鉛筆のイメージ

みなさんは、『愚痴』を悪いものだと思っていないでしょうか?

誰かに愚痴をこぼすことで気持ちが軽くなる経験が、
多くの人にあるように思います。

愚痴自体を否定したいわけではありません。
けれど、愚痴だけで感情を扱うことが当たり前になると、見えない歪みが生まれるように思うんです。

母娘関係を観察する中で、そんな仮説が出てきました。


愚痴の持つ、ストレス緩和機能

言葉にすることで整理されることもあるし、「わかるよ」と共感してもらえるだけで心が救われる瞬間もあります。

とくに女性同士の会話における愚痴は、親密さを深める役割を持つことが多いです。共有することで関係は近づくし、孤独感も和らぎます。

仲間がいる感覚や、自分の気持ちを受け入れてもらえることによる安心感は癒しの効果を持っているでしょう。



共感が与えてくれる安心感

愚痴を共有し合うことで、横のつながりを深めることもできます。

自分の体験をもとにした負の感情の共有は、

  • 「私も同じような経験がある」
  • 「私もそう思う」

このような、『自分の気持ちをわかってもらえる=安心感』は大きいです。

もちろん、私自身も経験したことがあります。
心が軽くなりますし、なんだかスッキリするんです。



問題は”手段が愚痴だけになること”

そんな癒しの手段ではありますが、もし自分自身の感情処理方法が”愚痴だけ”になってしまったらどうなるのでしょう。

外側に発散・発信ことはできますが、自分の内側で整える力が育たないまま大人になっていくとしたら...

愚痴を、一時的なストレス発散として使用することは適切だと思いますが、慢性的に誰かに愚痴を言うことでしか感情処理をできないようになったら、内的な成長の機会を逃してしまいそうです。






感情処理が発展しないという停滞

母娘関係における愚痴文化と感情処理の未成熟を象徴する、散らばったアルファベットビーズのイメージ

愚痴だけが感情処理の手段となるリスク

やはり、愚痴だけを「感情処理の手段として学習をしてしまう」可能性には注意したいです。

その背景には、母娘関係での慢性的な愚痴文化が広がっていることが少なくありません。

娘と同様に、母もまた女性。

母と娘のどちらもが、愚痴をいうことで感情処理しあっているパターンを何度か見かけたことがあります。

それが続くと、母も娘も、誰かに聞いてもらうことで感情処理をする必要性が出てきてしまいます。互いに内側で感情処理をする力が育ちません。




社会の場にも持ち込む「愚痴文化」

つまり、自分の中で感情処理をする「内省力」が身につきづらいんです。

自分自身の頭の中で、感じたこと・捉え方・どうしたらいいかなどの振り返り、考える習慣が身につきづらいです。

そのため、学校や職場なども社会に出ても、同級生や同僚・先輩・上司など...自分の感情を聞いてもらうことで処理をしようとする癖が出てしまいます。

親子関係では問題が起きなかったとしても、社会で出会う人たちに対しても同様に「感情処理を外部に依頼することで安心を得よう」としてしまうことに。

何度も言いますが、愚痴自体は悪いことではありません。
ただ、愚痴を用いたコミュニケーションでしか人間関係を築けないようになると健全な関係を持つことは難しいでしょう。




言語化と再解釈の不足

  • 自分がどんなことを感じたのか
  • どんなことを思ったのか
  • 本当はどうしたかったのか
  • そもそも見方に歪みはないか?
  • 事実だけを拾うと?
  • そもそもこれは問題なのか?
  • 自分にも非はなかったかな?
  • 改善できる部分はないかな?...

起きた出来事に対して、感情を自分の中で分解したり、認識したり、と言語化&再解釈する経験が不足すると、人生の問題解決力が身につかず不利に働いてしまいます。

今は、母も元気かもしれませんが年老いて話をする元気もなくなり、
同級生たちも各々の人生を歩み始め、
職場の人たちは仕事の話が主軸、あくまで職場の人という距離感。
そうなると、愚痴を吐き出せる他者が減っていき、自分の内側に溜まりがちに。

そのため、感情処理様式を更新する必要がありそうです。
自分自身で、「言語化し、出来事を再解釈する」ようになりたいところです。






自覚がないという難しさ

感情が複雑に絡み合う様子を表現した頭部シルエットのイメージ。愚痴による感情処理と精神的自立の課題を示す

現状の問題把握が難しい理由

共感をメインとした愚痴の会話は、自分の気持ちを軽くする効果が高いので「満足感」が非常に高いです。

そのため、「このままではマズいんだ」という危機感を持ちづらいです。

他人との会話や自分の感情処理が上手くいっているように錯覚してしまいます。



処理の偏りに気づきにくい構造

また、互いに愚痴を言い合うような関係性であればいいですが、片方が一方的に愚痴を言って感情処理をしてもらっているような光景もよくあります。

その関係においては、「感情処理が得意な方が、苦手な方の感情処理を手伝う」という構図になりがち。

長期的には関係のバランスが崩れ、距離が生まれる可能性があります。





「これが普通」という前提の強化

幼少期から、家庭内で「愚痴を共有して感情を安定させる」ことを繰り返し学習しているので、それが普通・当たり前だと認識してる場合も少なくありません。

そもそも、「自分自身で処理するって何?」「内省って何?」という感じで、感情処理には誰かが介在するのが当然だという感覚が無意識のうちに強化されていきます。






負担はどこへ流れるのか?

母娘関係における感情労働の負担や愚痴文化の連鎖を象徴する、絡み合ったカラフルな輪ゴムのイメージ

処理役が固定される関係

共感を中心とした愚痴会話に慣れている人との関係性では問題が起きにくいこともあります。

しかし、感情処理の様式が異なる人同士の関係では、片方が処理を担う構造になりやすく、見えない負担が発生することがあります。

結果として、長期的な異性との信頼関係を築くことが難しいです。



気を使う側が消耗する

このように、気遣って話を聞いてくれる側の精神が消耗することになりやすい構造のため、せっかくの良縁があっても、人間関係が破綻してしまったり、発展しなかったり、と幅が狭まっていくことに。

誰ともいつまでも、距離が縮まらない・対等でない関係性ばかりになりやすいです。






愚痴をやめるのではなく、質を変える

多様な感情や価値観が循環する様子を表す色鉛筆の円形配置。母娘関係と愚痴文化の循環構造を象徴

共感+問い直しという会話

ただ、何度も言いますが愚痴が悪いわけではありません。ストレス発散のひとつとして、感情処理のひとつとして有効な手段であることは間違いありません。

共感するスキルも必要なのですが、別の種類の会話もプラスαで付け足すことができるといいのかなと感じています。


内省を含む感情整理

そもそも自分自身の中で感情処理をできるようになると、生きていくのが非常に楽になると思います。

いわゆる「内省」が大切です。

  • 自分の心の状態
  • 何を感じているのか
  • それがなぜ嫌なのか
  • いつから感じているのか
  • その状態は客観的に見てどうか
  • 改善する必要がある場合どうしたらいいか...

問い出すとキリがありませんが、内省することができるようになると感情整理がスムーズになり、誰かに愚痴を言いたい!聞いてもらわないと落ち着かない!という衝動も自然と減ってきます。

穏やかな精神状態を維持しやすくなっていきます。
自立した人間になっていくはず。



成熟は後からでも存分に育つ

精神的自立は「孤立」するわけでも「孤独」になるわけでもありません。

精神的に自由になるだけです。
とても楽になります。


感情処理を他人に依存する状態が続くと、対等なパートナー関係を築きにくくなったり、問題解決を外部に委ね続ける傾向が生まれます。

その結果、主体的な選択がしづらくなり、長期的な人生設計にも影響を及ぼす可能性があります。

だから、何歳からでもいいから「内省力」を育てるのは必要なことではないかなと感じます。


遅すぎるということはないと思いますし、終わることもないのでしょう。
ずっと続くものだから、早いうちに習慣になるとラッキーだねぐらいの感覚でいます。

  • この記事を書いた人

ねぐち

ついつい人の悩みや選択の背景にある「構造」を考えてしまう鳥です。 感情と論理、どちらも踏まえた上で、納得できる理解を大切にしています。 「理解すること」が人生を楽にしていく流れを、ここで記録中。

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