とにかく頑張ることで自分の価値を証明し続ける人がいます。
ねぐちの幼少期は、まさにそれだったのかも。
と、大人になってから気づくことに。
一見、いいことなんです。
頑張れることも、結果に結びつける力があることも。
ただ、そのせいで「あなたなら大丈夫」と思われて、
進行してる病に気づかない危険性があったように思います。
価値を証明するために生きてきた人たち

今振り返ると、これまでは”社会的評価を獲得することで自分の価値が証明される感覚”になっていたようです。
学校でも、社会に出てからもそう。
- 【学生時代】成績、部活、リーダー、交友関係...などの評価
- 【新卒時代】収入、肩書、職種などのステータス
新卒で働き始めた頃の私は、仕事で評価されるにはまだ若すぎました。
その代わりに目に入ってきたのは、容姿や振る舞いでした。
「可愛いね」
「細いね」
「若くていいね」
そういった評価の方が、ずっと手に入りやすかったんです。
気づけば、体重という数字を追いかけていました。
自分には価値があることを証明するために。
もっと軽くなれば。
もっと数字が減れば。
そうすれば、「自分は大丈夫」と安心できる気がして。
【関連】→摂食障害になっても追い続けた「数字」|”結果主義の自己肯定感”の脆さ
一瞬で消える自信
成績も体重も、仕事だってそうですが、
目標を達成しても、また新たな目標を設定することができてしまいます。
45キロ、43キロ、30キロ台...
やりながら自分でも違和感に気づいていました。
このままでは、ただ痩せすぎてるだけになる。
でも、体重を更新するたびに快楽が伴う。
そして、自分は大丈夫という漠然とした安心を感じられる。
数字で見えるものが結果として欲しかった私。
まだまだ足りないと思って、痩せる選択を続けます。
なぜそこまで証明を続けたの?
そもそもそこまでして、何を証明しようとしていたのでしょう。
だって、他人の体重は気になりません。
とにかく自分の体重だけが許せない感覚でした。
「何もしない自分なんて許されない」
「結果を出せないと価値がない」
そんな自己否定が根深く蔓延っていたようなんです。
条件付きの愛情の弊害

私の場合、その背景には「条件付きで愛されてきた、可愛がられてきた」親子関係が影響してると思っています。
客観的に見ると、父は私をとても可愛がっていました。
しかし、私には父の本音が痛いほど伝わってきていました。
「優秀だから好き」
「いい子だから愛そうかな」
「期待に応えてくれるから好き」
私のことを好きな理由には、必ず条件がついている。
裏返すと、何もできないなら好きではないということ。
だから、私の中には「価値を提供できない私は無価値」という強い強迫観念が埋め込まれていったのでしょう。
価値を証明するものなのか?

まだ痩せようとする私に対して、「もう痩せなくていいよ」と言ってくれる人もたくさんいました。
しかし、それではダメでした。
その自分は許せない。
だって、何の価値もなくなってしまうから。
当時は、それぐらい"自分で自分の首を絞めて"追い込んでいました。
「まだ足りない」が止まらない
しかし、何もない状態での自分を肯定する力がない私は、何かの結果を出さないといけないと思い込んでいる。
だから、追い込むしかない。
痩せるしかない。
そんな思考になっていました。
「まだ足りない」
「もっとやらなきゃ」
そんな感覚をずっと抱えてる感じ。
証明し続ける人生の終わり方

証明しなくても「平気でいられる」ように
考える時間が増えると、この方法で自己価値を感じるのは無理だと気づきます。
でも、何もしないと不安になる自分がいるのも事実。
だから、「何もしなくても平気でいられるように」なる必要がある。
それには、時間がかかるだろうな。
だって、幼少期からそうやって自分を保ってきたんだから。
けど、この消耗するだけの日々からは抜けよう。
そう思って少しずつですが、「何もしなくても居てもいいんだ」という感覚を体験しています。
頑張れること自体は、いいこと
きっとこれからも、何かを頑張るでしょう。
頑張らないなんてできないです。
何かに真剣に取り組むこと自体は悪いことではないと思うから。
でも、誰かの条件付きの愛情を得るために頑張ることだけはやめようかな。
頑張ることで「自分が居てもいいと思える自信」にするのはやめようかな。
親からの愛情を得る資格があると証明するかのように頑張ることは、もうやめよう。
そう思いはじめたのは、25歳ごろだったかなと思います。
それでも簡単に、終了することはできなかった。
親じゃなくても、大事にしてくれる人はいた

結婚してから、谷くんとの関係の中で「別に何もしなくていいよ」「そのままでいいよ」という漠然とした肯定を受け取る経験ができています。
親じゃないのに、
私のことを産んでもないのに、
育ててもないのに、
存在自体を肯定してくれる人がいる。
それを知れたことが、とても大きな出来事でした。