洗濯機の中にぬいぐるみが入っている様子。社会の中で感情を受け止め続ける役割や、消耗していく感情労働を象徴するイメージ。

ねぐち心理研究

社会生活で引き受けてきた「メンヘラ対応」という役割|受け止めという感情労働の話

身内以外の関係でも、同じ役割を担う日々

机の上に置かれた閉じた本。考えを整理し、内省する時間を表す静かなイメージ。

依存される役割は、家族やパートナーとの関係だけに現れるものではなかった。

振り返ってみると、身内以外の人間関係でも、私は同じ役割を何度も担ってきたように思う。

誰かの感情を受け止める役割を、一方的に押し付けられていたわけではない。

私自身が、その場所に行っていた側面も確かにある。


女性同士の友人関係でも発生する「メンヘラ対応役」

女性同士の友人間では、よく「愚痴や不満を語り合う文化」がある。

愚痴や不満と聞くとネガティブなものに聞こえる人もいるかもしれないが、お喋り自体が「女性のストレス発散法として大きい」ため必要な時間である。

そんな女子会の会話にて、私はつい「不満をたくさん言う子」の対応を担当してきた。



不安処理が苦手な同級生の感情の受け止め

生活していれば、誰しも愚痴の1つや2つは溜まるのだが、"とくに溜まる子"が存在する。

その子たちには共通点があった

不安処理が苦手=感情を自分で処理することが不得意


そんな同級生たちの感情の受け止め役を、いつの間にかやることが多かった。




なぜか「話を聞く側」になる構造

話を聞いてもらえるだけで、不安が和らぐことも多いとか。

そのため不安でいっぱいな子はとにかく、たくさん話す必要がある。

私自身のことも話してと言われると、話せなくはない。ただ、そういった子と比較すると「聞いてほしい話=自分の中で処理できない感情や不安」が少ないため、どうしても聞く側に回ることが多い。

余談だが、そんな構造になりやすいことから「自分のこと話さない、秘密主義な人」というレッテルも貼られることもしばしばあった。





なぜ、その役割に”行ってしまう”のか

やりたいというより、楽だから

もう少し詳しく、その役割を選んでしまう理由を説明する。

それは「私がそれをやりたい!ように見せて、その役割が楽だから」だ。

そのポジションで家庭内でも、学校内でも、友人間でも、人間関係を築いてきてるため慣れている。

得意な処理として自覚もしてる。
そのため、息を吸って吐くように、
対応できるようになっていた。



求められるから応えてしまう

また、不安でいっぱいな人たちは「誰かに処理してもらうことを求めてしまう」傾向にある。

自身の中で処理できず、溢れたものをぶつけてしまう構造のため、誰かに求めながら生きてるのだ。

求められることは、自己価値を感じるきっかけになる。
その心理構造と噛み合ってしまい、つい応えてしまう。


一見優しいようにも見えるが、そうとは限らない。
もちろん優しさも含まれているが、自分のためにやっている面も大きいのが本音だ。



そこで自己価値が成立してしまう

このように、人間関係の中で「感情を処理する担当=メンヘラ対応役」になることで、自己価値を見出してきた私は、そのポジションを選び続けてしまった。



職場で「しっかり者」に配置されやすい人たち

教える・支えるポジションに行きがちな人

働くようになってから、職場でも「教える側・支えるポジション」に行きがちな人を発見する。

同級生と同様に「不安処理が苦手なままの大人たち」はたくさんいた。

その対応ができる人は、職場で役職を持っていることが多かった。そんな人たちは、他の社員の感情処理まで業務としてやっているようだ。

「仕事ができる側(上司・管理職)」のポジションを獲得していることが多い印象を受けた。



20代女性がその役割を担うことに対する反感

そんな役割を、当時(20代前半)の女性が担おうとすると強い反感が生まれることも学んだ。

年齢や性別によって、「感情を処理する側」「してもらう側」という役割期待が、暗黙のうちに決められているように見えた。

  • 【男性・40代】大人で、立場のある男性が「感情処理を担当するのはOK」
  • 【女性・20代】感情を処理してもらう側、頼る側が好ましい

得意だから、自己価値を感じられるからと、その役割を担おうとすると「同性からの総スカン」を避けることができなかった。



そこで自己価値を見出せてしまう構造

ただ、同級生たちとも、父親との関係内でも。
役割依存になっていた私は、
それ以外の自己価値の見出し方を知らない。

だから、そこに行きたくなってしまう自分がいる。

だから、どこでもそんなポジションを探してしまう。
こうやって父を筆頭に、たくさんのメンヘラ対応の経験を積んできた。





責任感の強い人が抱えやすい、見えない苦悩

ノートや開いた本が並ぶ机の風景。個人の体験を整理し、構造として考え直すプロセスを表したイメージ。

頼られることが前提になる恐怖

言い換えると、責任感が強いとも言えるだろう。
頼られることに喜びを感じ、応えることも苦ではない。
ただ、やりすぎてしまう。

頼られること・対応すること・自分がやること、
それが当然のような流れが「属してる人間関係の中で生まれやすい」のは問題だ。

精神的に消耗する流れが生まれてしまう。



「NO」を言うと崩れる関係性

しかも、それで成立してきた関係だからこそ、NOと言いづらくなる。

きっと自分がした方が早い、
自分の方が得意だなどと、
少し高飛車な見方をしていた面もあったのかもしれない。

だから、「わかりました」「やりますよ」と引き受けてしまう。
不安でいっぱいそうな人をみると、ついメンヘラ対応をしてしまう。

その人が心配だからなようで、
自分の価値を感じながら、
コミュニティ内の調和を保つこと
それが私の目的だったのだと気づいた。

そんな関係性は、自他ともに不健全だ。




誠実で真面目なほどに、壊れやすい理由

真面目なことはいいことだと思うが、限度を学ぶ必要があった。

加減を知らないと、精神的に限界を迎えるまでやってしまう。
そこまでやらない人だっているだろうが、真面目・誠実な性格な人ほど注意したいことだ。

不真面目な人は、不真面目な人なりに気をつけたいポイントがある。
不誠実な人もまた、不誠実な人ならではの注意点が存在する。


自分の性格を理解しておくことが、
やはり「自分を守る」一番の手段なのかもしれないとつくづく感じる。

  • この記事を書いた人

ねぐち

人の悩みや選択の背景にある「構造」を考えるのが好きだし、癖です。 感情と論理、その間を行き来しながら、納得できる理解を大切にしています。 「理解すること」が人生を楽にする瞬間を、ここで記録中。

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