見えない感情労働とは何か

日常に潜む「感情労働」
最近、ひとつの言葉が頭に浮かぶようになった。
感情労働というものが、私たちの日常生活に存在してるのではないか、ということだ。
家事でもなく、仕事でもない。
目に見える成果もない。
けれど確実にエネルギーは使っている行為。
- 相手の不安を吸収すること
- 空気を整えること
- 衝突が起きないよう、先回りして言葉を選ぶこと
それらは作業として扱われることは少ないが、人間関係を維持するたに欠かせない働きのように思える。
分かり合えなさが生む、関係の軋轢
ただ、この労働は理解されにくい。
やっている側にははっきりとした消耗感があるのに、
やっていない側にはそもそも見えづらい。
それが労働だとすら認識されないこともある。
だからこそ、関係に軋轢が生まれる。
分かる人には分かる、この感覚
分かる人にはすぐ分かる。
しかし、分からない人は本当に分からない。
自分がやっている側だと思っていたのに、実は別の場面ではやってもらっていた、ということもある。
こんな認識の差が、静かに関係を歪ませていく可能性があるのではないか。
そんな仮説を持つようになった。
なぜ処理する側だけが疲れるのか
非対称性

そもそも「不安の感じやすさ・自分の感情処理力」には、かなりの個人差がある。
そのため、ある関係において、
どちらか片方が「処理をする」
もう片方は「軽くなる」
そんなエネルギーの流れが生まれやすい。
結果、エネルギーの流れが一方向になりやすい。
互いに相手の処理をして、
互いに相手に処理してもらうこともあって、
そんな対称的な関係が好ましいが、個人差があるため難しい。
そのため、ほとんどの対人関係で非対称性が生まれている。
可視化されにくい

家庭内では、仕事・家事などの役割分担の話をしやすい。それらを役割として認識し、やるべきこととして捉えてる人が多いからだ。
当事者意識がちゃんとある。
さらに、誰がどれだけやったのかを可視化しやすいという特徴もある。
ただ、今回話してるような感情労働は可視化することができない。
感じ取れる者が言語化して、伝えるしかないのだ。
そして、それは家事や仕事のように数字として結果は出ないし、完了というチェックをつけることもできない。
負担は確実に偏っているのに、
感じ取れる側だけが続けて、
気づいてももらえることもないのに、
やり続けるという歪んだ構造になりやすい。
そんな関係が続くと、相手に対する見方が変わるのは自然な流れだ。
「できる人」に役割が固定される

最も痛手となるのが、感情処理が得意な人に役割が固定化されやすいところだ。
「あの人がやること」として、コミュニティ内や対人関係の中で役割が固定化される。
そして、固定化された人がその役割を放棄しようとすると相手は違和感を持ち出す。
優しくない、
冷たくなった。
その人に対する”人格や性格の見方”が歪んでいくのだ。
だから、役割を降りることが難しくなる。
そして、さらに役割が固定化されていくという悪循環が生まれる。
能力の自動化
ちなみに、感情処理が得意な人は「優しさだけでやっているわけではない」
ここが注意点だ。
感情処理力が高いからやっているだけ。
できるからしてるだけなので、処理という表現が一番近い気がする。
相手に対して好意があるからやるわけではなく、
人格が良いからしてるわけでもない。
ただ、自分がやる方が話が早いからやっているだけだ。
能力を自動化してるような状態。
少なくとも、私はそうだ。
だから、別のコミュニティに入れば「やってもらう側になること」だってある。
相手によって、使うか使わないかが変わる。
相性の問題なのか
私が「感情労働に対する負担感があること」を相手に伝えたことがある。
相手からは「それは相性の問題だからどうしようもないのでは?」と返答された。
こういった感情処理力の違いは、相性の問題として取り扱うことができるのだろうか?
相性の良し悪しは、性格・気質・好み・価値観などによって決まる。
価値観が違う?
感情処理力の差というのは、価値観の違いではない。
スキルの差だからだ。
価値観は、個人個人の判断・評価基準を示す部分。スキルの差を示す言葉ではない。
だから、価値観の違いとはいえなさそうだ。
性格が合わない?
さらに、相手が変われば「役割が逆転することもあるため」相性とはいえない。
その時期の、その状態での、その条件下での、役割としてどう機能してるかなだけ。
性格や気質は大きく変わることがないため、相性とはいえない。
その時点での、「感情処理力の差があることによる相性」を判断することはできるが、
永遠に変わらない部分ではないので、相性が悪いからこの関係は無理と切ることはできない。
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それは本当に相性の問題だろうか?
こういった感情労働の不満を伝えた時に、相手から「相性の問題では?」と言われたことがあるが、そうは思えない。
それだと解決する気がない人、変わる気がない人に見える。
段階の差という仮説

段階の差とは?
相性の問題ではなく、「段階の差による」問題に見えてきた。
同じぐらいの感情処理力を持ったもの同士の関係であれば、そもそも偏りは起きなさそうだ。
性格や気質が異なっても問題はない。感情処理力の段階が同じ人ととであれば、関係の歪みは起きづらいと思う。
自分の感情を言語化できるか
まずは、自分の感情を言語化できるかが重要だ。不安を感じている、悲しいと思っているなど、自分自身が抱いている感情を「自分自身で言葉にすることができる」かどうか。
拗ねたり、不機嫌になったり、態度で示すのではなく、言葉にする力があるか。
それを、相手に歪めずに伝えることができるか。
自分で処理できるか
どちらかといえば、ネガティブな方の感情を自分自身で処理できるかが「感情処理力において差が生まれやすい部分」だ。
嫌だなと思っても自分の中で、捉え方を変え直す。自分のなかでコントロールする。
相手にぶつける前に、攻撃的でない範囲の形に変えてから出力する。
自分の内側で整えることができるかは、人によってかなり差が出る。
他人の感情を分けて扱えるか
他人がどう感じてるか、その感情を自分のものとは別物だと、切り離して考えることができるか。
これも重要な感情処理力だ。
相手が怒っていると、自分もイライラしてくるとなると、他人の感情の渦に飲まれやすくなってしまう。
相手は相手、自分は自分。
そんな姿勢を持ちながら、関係を維持することができるようになると安定した関係が築きやすいだろう。
優劣の差ではなく、経験量の差
このような部分に、差があるのは優劣の違いではない。
圧倒的に経験の差だ。
いつから、やってきたか。どれだけ訓練してきたか。
その差が、如実に現れるだけ。
その人の優劣を決めることはできない。
練習量のようなもの。
それは、置かれていた環境や、選んだ環境に大きく左右される。
また、その人の気質(向上心や気力なども)も少しは関係するが、
誰もが確実に伸ばすことができる部分。
多くの人が、後天的に伸ばしていける部分だと思う。
相性の問題と片付けるのは簡単だ。
でも、もし段階の差だとするなら、必要なのは断絶ではなく調整なのかもしれない。
そして、この構造は夫婦だけの話ではないように感じた。
そして、この感情処理の差は、個人の問題というより、育ってきた環境や文化とも深く関わっているように感じ始めた。